ゼロの存在しない数学が存在します。

そこでは、1-1=-1 と記述されます。

ですが、それで終わったわけではありません。

その -1 は、どこかで、-1+1=1 として、1 として現れます。

1 が、保存されるためにです。

存在は、生成も消滅もすることはありません。

ですから、そこに存在する 1 は、保存されなければなりません。

1万円持っていて、その1万円を落とせば、1-1=0 として、0円として記述され

ますが、ですが、1万円持っていて、1万円を落とせば、1万円の損をしたのです。

ただ、その1万円は誰かが拾い、+1万円として記述されなければなりません。

1万円は、保存されねばならないからです。

1-1=-1、-1+1=1 としてです。
1-1=-1 となる算式は、数直線の解釈により記述されます。

1 とは、数直線状において、1 と記されている点が 1 なのでは

なく、0 から 1 までの間のすべてが 1 だとすれば、1-1=-1

と記述されるからです。

一般に、引き算は、数直線状において、左移動で記されます。

2-2 は、1という点が、左に 2 ほど移動して、0 に重なり、

2-2=0 としてです。

ですが、2 とは、0 から 2 までの間のすべてで 2 です。

存在において。0 など存在しないのであれば、2-2=-2

と記述されねばなりません。

そして、存在には、マイナスの符号の存在が存在することもありません。

であれば、2-2=-2 の -2 は、どこかで、2 として生還しなければ

なりません。
 
 



昔、数学や物理学を学んでいたころ、そこに出てくる名前が

すべて外国人の名前だったことに、なんなく悔しい思いを

感じたことがあります。

数学や物理学の世界において、日本人がいてもいなくても、

その歴史が変わることはないでしょう。

明治期において導入された西欧の学問

学ぶという字には真似るという意味もあるとか

西欧を真似始めてすでに百四十年の年月が流れているにもかかわらず

いまも西欧を真似るという明治の亡霊が彷徨っています。

私には、私の記述が正しいかどうか、自分でも判断がつきませんが、

ただ、ゼロと点とマイナスの存在しない世界の構築は可能だと思っています。

数学や物理学を志す若い世代の人に、西欧に対して、日本人の力を示して

いただければ、その一助になれば、本懐です。
存在には、ゼロも点もマイナスも存在することはありません。

だからこそ、保存則が存在することが可能であり、また、

ゼノンのパラドクスが成り立つことなく、世界は安定しています。

既成の数学や物理学は、既成の定義の上に成り立つ世界です。

存在を記述する定義ではありません。

ゼロや点が存在することによる困難、であれば、やはり、ゼロや点は

存在しないのです。

ない、という記述が、言葉の世界の記述であったようにです。
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