私に物事を正しく判断する能力があるのかどうか
いつもそのことが頭の片隅にあったような気がする

10個のリンゴを5人で分ければ、1人2個になる
これは合格だろう、私には正しい判断ができる

では、10個のリンゴを3人で分ける場合はどうか
1人3個で、1個余る
その1個をナイフで切り、1人3個と1/3個

算数のテストだと正解になる
私は算数的には、正しく判断ができる能力があることになる

10個のリンゴを3人で分ける方法は、現実的には多くある
1個捨ててしまえば残りは9個で、1人3個で問題はない
算数的には不正解でも、現実的には正解だったりする

歴史という現実は、10個のリンゴを
力のある者が6個取り、次の者が3個とり
残りの者が1個だということを教えてくれる

10個のリンゴの分配、物事の正しさも一筋縄ではいかなかったりする



子供の頃、地図を描くのが好きだった
自分の家があり、友達の家があり、学校があり
川があり、山があり、道があり、その風景を画用紙に描く

画用紙にいっぱいに描かれた世界が、私の知る世界だった

知っている道の、その先に続く知らない世界
遠くに見える山の、その先の世界
それは私の知らない世界だった

知らない世界に囲まれた、知っている世界で私は遊んでいた
画用紙の外の世界を知らなかった
画用紙を見ながら、そんなことを時々思っていた

地球にいて、太陽系にいて、銀河系にいて、宇宙にいる
中学生の頃、そんな地図を知った
宇宙という地図、画用紙に描かれたその世界が私の知る世界だった


知らない世界に囲まれた知っている世界
宇宙の地図も、子供の頃の村の地図と同じだと感じた

私はどこまで物事を正しく判断できたのか・・・、もう一度考えてみよう
残された多分十年程度、私はどこに存在しているのか、もう一度
月までの距離38万kmを思考的に歩く
その38万kmは現実の空間だとされている

その延長をどんどん歩く
歩いて歩いてどこに行きつくのか

宇宙の果て、宇宙の外、それとも無限の宇宙
空間はどこまで続いているのか

現実の空間があり、その向こうに広がる世界
そこはもはや科学においても現実の空間と呼ばれることはない

知らない世界に囲まれた知っている世界を空間と呼び宇宙と呼ぶ

宇宙空間は膨張している、と宇宙論は言う
では、その空間はどこを膨張しているのか、だれも知らない

私はどこに存在しているのか
日本に存在し地球に存在し宇宙に存在している

では、その宇宙はどこに存在しているのだろうか
成り立つのか成り立たないのか、それすらも分からぬ問い

私はこの人生をどこで過ごしているのか
宇宙?、馬鹿な、とは思うものの、その域を出ない・・・
宇宙の創生を記述するビッグバン理論の最大の弱点は
礎となる物理法則の存在のその出生を語らないことです

科学的に宇宙が存在のすべてだとするなら
物理法則も存在に含まれます

相対性理論、量子力学
物理法則は物理法則自身の出生を語ることはありません

法則もビッグバンとともに誕生した・・・
では存在の存在する理由にはなりません

数式は数式の存在する理由を語ることはなく
物理法則も物理法則の存在する理由を語ることはありません

なぜ物理法則が存在するのか
検証を至上とするこれはもはや物理学の主たる命題ではなく、思弁だけの問題です

物事を正しく判断する能力
考えること、ただ考えること、存在はそれしか方法のない出来事です

存在という夢物語・・・、いえいえ、存在のほうがむしろ現実で
人間社会のほうがむしろ夢物語なのです
人間という夢を見ていては、存在は記述できません

学問の弱点は、思弁が予算と給料で賄われていることです

製薬会社は千年の未来に効く薬に予算をつぎ込むことはありません
今日明日という次元で、厳しい経済の世界を生きています

予算という人間社会の現実では、思考の方向が予算と給料と同じ方向に向かい
仕事の方向に向かいます、医学なら医学の、工学なら工学の方向にです

結果、存在論などという一銭にもならない学問は
ほとんどマニアックな学問になっています

アリストテレスが第一の学と呼び、デカルトが第一の原理と呼び
ハイデガーが第一の問いと呼ぶほど高い学にもかかわらず・・・

学問が細分化され、細分化がされた先端が現在の学問の各々の先端です
基幹である存在は見えることはさりません

だれが一体存在を考えるのか
だれもが宇宙に存在に不思議を抱きながら、だれも考える人がいない

生活という現実、人間社会の現実が、存在を夢物語に仕上げます
過酷な宇宙という現実を忘れるかのように、地球という惑星で仕事をしています
仕事という現実、地球という不安定な惑星、夢を見ているのは誰なのでしょうか・・・
宇宙の存在に対する答えは、天地創造の物語として語られています
神による創造の物語としてです

物理法則も神により創られ
ですから、ニュートンやアインシュタインは、神の成されようを知る
という態度で、宇宙の有様を探求しました

神が存在するのかしないのか、私にはわかりませんが仮定することはできます

もし神が存在しないとしたら、宇宙は自身で自身を誕生させねばなりません
自身で自身を誕生させるような有り方が、宇宙の有り方です

ですから、物理法則が自身の誕生を自身で語らない限り
ビッグバン理論が宇宙の誕生の物語となることはありません

ではもし神が存在するとしたら、宇宙の誕生は了解できても
今度は存在の誕生が困難になります

神も存在するのなら、その存在も存在です
神は自身の誕生を自身で語らねばなりません

自身の存在を自身で語ることのできる存在だけが
存在として存在することを許されます
存在以外なにも存在していないからです
神の存在は避けては通れぬ問題です

私は存在の考察に関しては、神の存在を認めぬままやってきました
神が存在すれば、神の存在もやはり存在となるからです

存在そのものを、なぜ存在するのかという問いに
神の答えを待つことはありませんでした
その意味では、無神論者です

ですが、私の神に対する態度は、見事に中途半端です
存在の考察に神を認めないとしても、実生活においてはそうではありません

子供が入院し手術した時など、知らず神様・・・と思ったりもしました
父母が死んだとき、手を合わせ天国へ・・・と思ったりもしました

人間は金属ではありません
頭脳と感情とのバランス、いい加減といえばそれまでですが
私は見事にいい加減です

個人的には神の存在を望みます
神が存在すれば、人類にとってこれほど安心なことはありません

キリスト教の神、イスラム教の神、仏教の仏・・・
具体的な姿になると、これは何を信じていいのか、いまだ無宗教です



そこになにが存在しているのか
存在を問う問いは、それが第一義ではありません

なにが存在していようと、なにかが存在すればそれだけで問は成り立ちます
なぜ、存在するということが存在するのかと

神仏であれ、天国地獄であれ、幽霊であれ妖精であれ
存在するのであれば、存在するということがなぜ存在するのかと問われます

なにかが存在している
問の始まりは、やはり自分自身の存在です

デカルトの、われ思う、故に、われあり、という言葉が
なにかの存在を確かなものにしています

私は自分自身の存在を認識できます
自分自身が存在している

たとえそれが自分自身ではないとしても
自分自身と認識する認識が存在している

存在するということがそこに存在し、私という認識はそこに存在している
では、なぜ「 そこ 」が存在しているのか、問は深く潜行します

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